「ツナ缶事件」を総括する – Plastic Free Julyを通じて悟ったこと –

2017年8月4日

 

先月のPlastic Free Julyに便乗し、我が家でも同居人の協力を仰ぎ家単位で完全プラスチック包装断ちを一週間試みたわけですが、後に、同居人が買ったツナ缶がプラスチック包装されていたものだったことが発覚しました。

 

「缶だから」と私を誤魔化してまで動物性たんぱく質を摂取したかったのかと思うと哀れを誘います。図らずも、自分が今まで否定的な目で見ていた「ペットの猫に菜食を強いるベジタリアン」みたいなことになってしまっていました。

 

同居人は環境問題に並々ならぬ熱意を持った人なので、そこに甘えて今回は私に合わせてもらったのですが、体質的(お肉が大好きで、水分がたくさん必要で、冷たい飲み物が好きで、お酒もそこそこ飲む)に無理なものは無理みたいです(私はといえば、それほど肉・魚は必要としませんし(好きだけど)、水分は取りすぎるとむくむタイプですし、冷たい飲み物よりは温かい飲み物派で、完全な下戸です)。

 

私にとっては、少々の不自由に耐えれば後は楽しい世界が待っています。部屋はきれいになるし(散らかっている状態はあまり好きではないので、完全プラスチック包装断ちの4日目か5日目くらいに、不要となった包装が散乱していないシンク周りのすがすがしさに感動しました)、プラスチックごみの量を減らしたことをブログで報告すれば心優しい方が褒めてくださったりする。少しの我慢や不自由への大きな見返りが用意されています。

 

他方、モノがごちゃごちゃと出ていることに特に抵抗が無い同居人にとって、シンク周りがすっきりしようがそんなものは興味の無いことですし、誰が評価してくれるわけでもない。同居人にしてみれば、プラ包装断ちは単なる我慢に過ぎません(私の歓心を買うことがもはや見返りになっていことには忸怩たるものがありますが…笑)。ちょっと気の毒です。

 

なので、もう同居人には好きなようにやってもらおうと思いました。

 

今までプラスチックの責任区分は「誰が買ってきたものであろうと、その恩恵を受けたならば自分のプラスチック」という考え方をしてきましたが、今後は「誰が家に持ち込んだか」だけを問題にするつもりです。同居人が彼の都合で買ってきたものはコントロールしようがないので、それを二人の生活に使うことについて頭を悩ますのはもうやめて、自分の買い物だけに集中します。パッケージレスで買える材料だけでどれだけノンベジを満足させる料理を作れるか研究する方が余程建設的な気もしますし。

 

まぁ、ちょっと残念なアプローチではあります。

というのも、いずれはリサイクルのボックスの中に収納されるとはいえ、洗って干してある食料品がらみのプラスチック包装・容器たちは台所の美観を著しく損ないます。そもそも家に持ち込まない、ということが完璧にできるならば台所を常にすっきりとした空間に保つことができる。これは非常な大きなメリットです。リサイクルボックスだって要らなくなるかも。

それに対して、多くはないにしても中途半端にプラ包装を家に持ち込むことを甘受するとなると、プラスチック・フリーを目指して不自由しているにもかかわらず、そのメリットを存分に享受することはできないという口惜しい結果になるわけで。

 

あ、と言っても、別に同居人に対する評価が下がるとか、同居を不満に思うとかいうことではないです。

なにしろベランダの青じそがここまで持ち直したのは同居人が毎日せっせと水やりしてくれたおかげですから。パッケージレス大葉、助かってます。

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